関ヶ原の合戦をモチーフにしたB級スポット、岐阜県不破郡関ヶ原町の関ヶ原ウォーランド。
これから関ヶ原ウォーランドを訪れる予定のそこのアナタ!
この記事を読めば、関ヶ原ウォーランドが10倍楽しくなりますよ~。
ぜひ、読んで行ってくださいね!
なお、関ヶ原ウォーランドの施設紹介については別途記事で紹介しています。
今回の記事は関ヶ原の合戦の解説を、小難しい話は抜きにしてざっくり解説していきます。
関ヶ原の合戦を分かりやすく解説
関ヶ原の合戦は慶長(けいちょう)5年9月15日。
西暦でいうと1600年10月25日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の間で行われています。
結論からいうと東軍が勝利を手中に収め、徳川家康が天下統一の礎を築くことになります。
関ヶ原ウォーランドでの合戦解説動画
関ヶ原の合戦までのあらまし
豊臣秀吉の最期
この時代は豊臣秀吉の天下でした。
農民の子だった秀吉は出世につぐ出世で天下人(てんかびと)にまでのぼり詰め、太平の世を築くのですが、晩年は無駄な朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)や自分の後継ぎだった甥(おい)の豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)に自害を命じたりなど迷走が続き、次第に部下の信頼を失っていきます。
豊臣秀次(ひでつぐ)粛清
天下人だった豊臣秀吉は子どもが出来ず、当初は自分の姉の子の豊臣秀次を後継ぎにする予定で関白の地位を与えました。
しかし、晩年、秀吉に子どもが生まれ(豊臣秀頼)、運命が変わります。
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)を自分の後見にと考えた秀吉は、当初の後見人予定だった関白・秀次を高野山で切腹させ、さらにその血縁者・計39人を処刑してしまいます。
迷走の末、豊臣秀吉は関ヶ原の合戦の2年前(1598年)、後継ぎの豊臣秀頼が幼いままこの世を去ってしまいます。
暗躍の徳川家康
のちに天下を取ることになる徳川家康は当時大坂(大阪)で豊臣家に仕えていました。
豊臣家の後継ぎ・豊臣秀頼が幼いので五大老(ごたいろう)という役職に就き、政治をまわしていました。
しかし次第に豊臣秀吉が生前に禁止していた政略結婚などをどんどん進め、豊臣政権の決まり事を破っていきます。
「次は、ワシの天下だ!」と言わんばかりに・・・。
豊臣家に忠誠!石田三成
のちに関ヶ原の合戦で主役になる石田三成(いしだ みつなり)は幼い時に秀吉に気に入られ、豊臣家に忠義を尽くします。
豊臣政権下では五奉行(ごぶぎょう)という役職に就き、おもに内政担当でした。
しかし豊臣秀吉への忠誠心が強すぎて、戦闘中サボっている武将がいたら、それを秀吉に逐一報告したりして、他の武将の反感を買ってしまいます。
会社や学校でも居たでしょ?
サボってる奴を上司や先生にいちいち報告する、学級委員みたいなタイプ。
他の武将の反感を買いまくっていた石田三成は、突然襲撃されたりもします。
そんなこともあって、石田三成は徳川家康に五奉行の職を解任されてしまいます。
つまりはクビです。
クビになった石田三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)に帰っていきます。
・・・徳川家康打倒の思いを抱きながら。
上杉討伐と直江状
秀吉が亡くなってやりたい放題の徳川家康に反感を抱くのは石田三成だけではありませんでした。
会津(福島県)120万石の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)は軍備を増強し、築城を施していました。
この情報を得た徳川家康は「上杉に謀反の動きあり!」と察知して、上杉景勝に上洛(京都に呼び出す事)を命じます。
しかし、上杉景勝はそれを突っぱね、逆に徳川家康に挑戦状を叩きつけます(直江状)。
これに怒った徳川家康は上杉景勝の会津に攻め込みます(上杉討伐または会津征伐)。
徳川家康、東へ!石田三成に千載一遇のチャンス!
上杉景勝からの挑戦状に怒った徳川家康は大勢の主力部隊を動員して会津に向かいます。
これで豊臣政権の中枢の大坂・京都がガラ空きになります。
このスキをうかがっていた石田三成は、家康打倒の絶好のチャンスを迎えます!!
わらわらと集まる反・徳川勢力
7月2日、石田三成が『アンチ家康』の同志を増やしながら、挙兵に向けて動き出します。
大谷吉継(おおたに よしつぐ)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、長束正家(なつか まさいえ)、そして安芸国(あきのくに・現在の広島県)120万石の大大名・毛利輝元(もうり てるもと)も味方につけ大坂城入り。
徳川方武将の妻などの人質確保に急ぎます。
7月17日、ここに西軍が誕生し、事実上徳川家康に宣戦布告しました。
その兵力は9万5000人とも言われています。
西軍、伏見城と田辺城を攻撃
大坂城に大挙集結した西軍は畿内(近畿地方)を制圧すべく京都の伏見城と丹後国(たんごのくに・現在の京都府北部)の田辺城を攻めます。
特に伏見城は当時徳川家康の拠点だったために、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)や小早川秀秋(こばやかわ ひであき)、大谷吉継などなど総勢4万人の兵力を動員して攻撃しました。
この時伏見城も守っていたのは、家康の重臣・鳥居元忠(とりい もとただ)で、兵力はわずか1,800人。
少数でよく持ちこたえましたが、ついに西軍の軍門に下ります。
徳川家康、引き返して西上
石田三成挙兵の知らせを聞いた徳川家康は上杉討伐から反転、西へ向かい、反勢力を叩いて一気に天下取りに向けて加速しようとします。
豊臣家の諸大名を私軍へ!
会津の上杉討伐に向かった徳川家康について行った諸将でしたが、この時はあくまで豊臣家の武将でした。
そこで徳川家康は本当に自分の味方になってくれるのか確認するために現在の栃木県で軍議を開きます。(小山評定)
これで本来は豊臣秀頼のものである諸将を一気に自分のものにすることに成功します。(東軍誕生!)
東海道と中山道で分かれて西へ!
西へ向かう東軍は東海道(とうかいどう)と中山道(なかせんどう)に分かれて西へ向かいます。
徳川家康の本隊は太平洋側・東海道を使って美濃・尾張付近(現在の岐阜県・愛知県)を目指します。
一方の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の別動隊は中山道を使います。
徳川秀忠は徳川家康の三男です。
しかし西軍に付いた上田城(現在の長野県)の真田昌幸(さなだ まさゆき)の抵抗に遭い、足止めされ、結局関ヶ原の合戦に間に合わなくなってしまいます。
これ、結果的には関ヶ原の合戦は東軍が勝利したから良いものの、もし敗れていたら取り返しのつかない大失態だったはずです!
難攻不落・岐阜城陥落
東海道を西へ進む東軍の本隊は織田信長の孫の織田秀信(おだ ひでのぶ)が守る、難攻不落の岐阜城に攻め込みます。
あっけなく岐阜城は陥落します。
このあまりにも早い陥落に驚いたのは、すでに大垣(岐阜県)まで来ていた西軍の石田三成です。
本来、大垣で決着をつける予定でしたが、少し戻って関ヶ原に陣地を構えました。
東軍が岐阜城攻略に手こずっていれば、ひょっとして関ヶ原の合戦ではなく、大垣の合戦になっていたのかも・・・。
ついに激突!関ヶ原
そうしてついに天下を二分する関ヶ原の戦いの火ぶたが切られます。
東軍・西軍ともに戦力は互角!(ともに約9万人くらいといわれています。)
しかし、この一大決戦は意外なほどあっさり決着がついてしまいます・・・。
序盤は西軍が奮闘!
東軍・松平忠吉・井伊直政が先陣を切り、ついに戦いが始まる。
序盤は西軍がよく持ちこたえ、五分と五分に戦いを展開する。
しかし、西軍でまともに戦っていたのは一部の部隊だけで、次第に西軍に不穏な空気が流れる…。
現地に来ていない西軍総大将・毛利輝元
西軍の総大将は石田三成ではなく、毛利輝元でした。
まぁ、120万石の大大名ですから、総大将にまつりあげられた感じです。
しかし、関ヶ原の合戦の合戦当日は現地に来ていませんでした(笑)。
動かぬ毛利・吉川勢
西軍・総大将の毛利輝元は現地に現れず、その代わりと言っちゃあなんですが、同じ毛利家の血を引く吉川広家(きっかわ ひろいえ)や毛利秀元(もうり ひでもと)は合戦に参加し、南宮山(なんぐうさん)に陣を構えていました。
しかし、吉川広家はすでに東軍と内通しており、全然動きませんでした。(宰相殿の空弁当・さいしょうどののからべんとう)。
結局、合戦には参戦せずそのまま帰っていきました。
動かぬ島津勢
西軍・島津義弘(しまづ よしひろ)もまた動かず、戦いを傍観していました。
西軍のリーダー・石田三成が出陣を要請しますが、島津勢の島津豊久(しまづ とよひさ・島津義弘の甥っ子)に「島津には島津の戦い方がある!」とこれを拒否されてしまいます。
もともと島津義弘は関ヶ原の合戦にはあまり積極的ではありませんでした。
そもそも島津義弘と石田三成には確執(かくしつ)があり、島津の西軍参加も義理的なものに過ぎませんでした。
小早川秀秋の裏切り・戦況は一気に東軍に!
西軍の小早川秀秋、ついに東軍に寝返る
毛利勢、島津勢だけでなく、西軍の小早川秀秋(こばやかわ ひであき)もまた松尾山の陣地で動かずに傍観していました。
その兵力なんと1万5000人!!
もともと東軍の黒田長政(くろだ ながまさ)を通じて、東軍に寝返ることが約束されていましたが、ついに西軍を裏切ります。
寝返りの連鎖!西軍崩壊へ
小早川の大軍が西軍の大谷吉継隊に襲い掛かったとき、隣にいた西軍の朽木元網・赤座直保・小川裕忠・脇坂安治なども続々と西軍を離脱、東軍に寝返ります。
これで有利な地形を利用して互角以上の戦いを展開していた西軍に一気に暗雲が!!
西軍総崩れ!敗走へ
突然小早川勢の大軍に襲われた大谷吉継は自害、さらに小西行長(こにし ゆきなが)隊も壊滅!伊吹山に敗走します。
そして東軍の福島正則(ふくしま まさのり)と戦闘を繰り広げていた宇喜多秀家も壊滅!
そして石田三成も負けを悟り、伊吹山へ逃げていきました。
島津義弘の敵中突破
西軍の面々が離脱&敗走する中で、これまで全く動かなかった島津勢はすでに東軍に囲まれていました。
意を決した島津義弘は東軍の正面を突き、そのまま突破して戦場を脱出します。(島津の退き口)。
その島津勢の最後尾に付いて、追ってくる東軍を追い払って島津義弘を守った甥っ子の島津豊久はここで散りました。(捨てがまり)
東軍大勝利!
関ヶ原の合戦は西軍の崩壊により、東軍が大勝利!
徳川家康は天下統一に向けて基盤を固める結果になりました。
東軍の勝利に貢献した者はかなりの領地を与えられ、その後は安泰になりました。
一方で西軍に属した者は処刑(石田三成・安国寺恵瓊・小西行長)や島流しにされています(宇喜多秀家)。
まとめ
関ヶ原の合戦解説、お伝えしました。
最後まで徳川打倒に燃えていた、石田三成。
豊臣家に最後まで忠義を貫いた武将ということで、近年では爆発的な人気を誇ってます。
ではまた。