滋賀・高校野球

【八幡商】1989(平成元)年、春夏連続出場!【川越商・上宮】

前年昭和63年、夏の甲子園に初出場した八幡商

見事初戦を突破し、2回戦で敗退したものの大健闘。
大観衆を沸かせました。

これにて県内では『八商→大正義』の図式完成!

【八幡商】1988(昭和63)年夏 甲子園出場【本荘・宇部商】近年、甲子園大会での近江高校の躍進が目立ちます。 しかし、かつて滋賀県勢は『甲子園で1勝するのがステータス』という時代がありました...

さあ、ここから八幡商の黄金時代が始まっていきます。

今回は春夏連続出場を果たし、県内で無双状態だった1989(平成元)年の八幡商にスポットをあてました。

(参考文献・ホームラン、報知高校野球・週刊ベースボール・朝日など)

第61回 センバツ高等学校野球大会

新チームになった八幡商は秋の大会でも好調をキープし、翌年のセンバツ大会に出場します。

八幡商 センバツへの道!

夏の甲子園に出場した3年生が引退し、新チームになった八幡商はまず秋季大会を制します。

準々決勝、決勝戦ともに延長戦にもつれ込みましたが、順当に秋季大会で頂点に立ち近畿大会にコマを進めます。

近畿大会

近畿大会では初戦で尼崎北(兵庫)に終盤までリードしていましたが、最終回に逆転サヨナラ負けを喫してしまいました。

尼崎北が優勝

八幡商は初戦で姿を消してしまいましたが、その対戦相手だった尼崎北がなんと近畿大会で優勝!

高野連のオッサンら→『優勝した尼崎北に最後まで食らいついた八幡商ってチーム、実はめっちゃ強いんちゃうけ??』

 

こんな感じで八幡商センバツ出場のチャンスが一気に広がったのです!

出場が決まったわ!

そして見事八幡商は1989(平成元)年3月の第61回選抜高等学校野球大会の出場が決まりました。

東海大四10ー8八幡商

躍進が期待された八幡商でしたが、北海道代表・東海大四(東海大学付属第四高校)に打撃戦の末8-10で敗れてしまいました。

しかし敗れたとはいえ、八幡商には大きな収穫がありました。

収穫① 堀口投手の復活

前年夏の大会で2年生投手として甲子園で登板し、終盤に2本のホームランを打たれて自信喪失。
秋の大会は二塁手として登録されていた堀口滋選手がこの試合の終盤に登板し好投!
自信を回復してその後の夏の大会にエースとなって帰ってきます。

収穫② 主力2選手のホームラン

堀口選手同様、前年2年生で甲子園を舞台に立った、岡本選手・西田選手の両主力がこの試合でともにホームラン。
前年のチームより強力な打撃陣であることを印象付けます。

その後、春季大会も制した八幡商はまさに県内無双。
万全の状態で夏の大会に挑みます。

1989(平成元)年夏・八幡商3季連続甲子園

滋賀県大会で優勝したわ!

夏の滋賀県大会、優勝候補の最右翼だった八幡商
序盤は圧勝で勝ち上がりますが、準決勝と決勝は苦しい試合が続きました。

準決勝では八日市の好投手、河島投手に苦戦し1-0の僅差。
決勝戦の近江戦は終盤に逆転して逃げ切っています。

1989年 八幡商(滋賀大会・夏)

2回戦 8-0石山

3回戦 6-0虎姫

準々決勝8-3河瀬

準決勝 1-0八日市

決勝戦 5-4近江

八幡商は前年夏からこの年の春、夏と3季連続の甲子園出場を決めました。

ちなみに決勝であと一歩で甲子園出場の逃した近江高校は、その3年後の夏準決勝で八幡商にリベンジを果たし、多賀監督が就任して初の甲子園出場を決めることになります。

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当時の八幡商のメンバー

県内で無敵だった八幡商
当時どんなメンバーだったのかスタメンを紹介して行きましょう。

1番レフト・西田篤(3年)

打撃センスは県内トップ、前年夏はサードで出場しています。
粗削りながら長打力もあり、県大会では.450(20打数9安打)でした。

2番ライト・福島正博(3年)

バントをするタイプの2番打者ではなく、右投手が相手の時は4番を任されることもある。
スタメン唯一の左打者。

3番センター・田中孝明(3年)

県大会では1番西田選手と同じく打率.450(20打数9安打)。
前年夏は甲子園でホームラン(宇部商戦)を含め、7打数6安打の大当たり。

4番ファースト・岡本尚士(3年)

県大会で打率.500(18打数9安打)。
春のセンバツでは東海大四の大内投手から3ランホームラン。

5番ピッチャー・堀口滋(3年)

復活してエースとして帰ってきました。
130キロ台と直球とカーブなどの変化球のコンビネーションで組み立てます。
崩れそうで崩れない、粘りの投球が身上。

6番キャッチャー・太田丈二(3年)

県大会では15打数4安打(.267)でしたが、エース・堀口投手を好リードで支えます。

7番サード・川村寿和(3年)

県大会では打率.400(15打数6安打)、とくに決勝の近江戦での決勝タイムリーツーベースが光りましたね。

8番ショート・重(しげ)貴史(3年)

県大会では2番を打っていました。
堀口投手が復活するまでは、アンダースローの主力投手でした。

9番セカンド・小西信也(3年)

県大会はノーヒット(9打数0安打)でしたが、甲子園ではラッキーな二塁打などもありましたね(雨で相手野手がボールを見失う)。
大事な守備の要です。

第71回全国高等学校野球選手権大会

こうして八幡商第71回全国高等学校野球選手権大会に出場します。
大会6日目(8月14日)第4試合、相手は埼玉県の川越商です。

ともに1回戦は不戦勝、2回戦からの登場になりました。

埼玉代表・川越商

埼玉代表・川越商業(かわごえしょうぎょう)春夏通じて初出場でした。

当時、県立川越商業高校2002(平成14)年より校名が川越市立川越高校に変更されています。
埼玉県大会7試合中、1点差が3試合。
接戦をモノにして勝ち上がってきました。

後にも先にも甲子園出場はこの1回だけです。

円谷監督と仁村薫

川越商円谷(つぶらや)亘之監督はキャッチャー出身。
教え子には同校OBで主に中日ドラゴンズで活躍された、仁村薫(にむら かおる)さんがおられます。

この試合の前日、偶然にも仁村さんがナゴヤ球場(当時)でホームランを打っており、円谷監督は「実に縁起がいい!」と喜んでおられました。

バス70台で応援に来たわ!

川越商大正15年創立の伝統校、地元川越市から実に応援バス70台で乗り込んできました。
当時、男子生徒183名に対して女子生徒1,270人でした。

完全試合男の2年生エース

話題は何といっても埼玉県大会初戦(2回戦)の川本高校戦で完全試合を達成した2年生の岡崎淳二(おかざき じゅんじ)投手でした。

特別な剛速球や変化球があるわけではないのですが、打者の手元でホップする伸びのあるストレートが武器で、完全試合を達成した試合では投球数103球のうちカーブはわずか1球のみでした。

決勝戦の大宮南戦は1安打完封。
県大会62イニングを投げ、失点5・四死球15・奪三振71でした。

原 健一主将(3年)

川越商の主将は9番ショートの原健一選手でした。
県大会通算では.182(22打数4安打)と当たりがなかったのですが、決勝では3安打の大当たりでした。

大沢 希捕手(3年)

2年生エースの岡崎投手とバッテリーを組むのは大沢希(けい)選手(3年)です。
円谷監督がキャッチャー出身という事もあって、みっちり指導されたといいます。

出塁率抜群!1・2番コンビ

川越商のキーマンは1番センターの近藤孝宏選手(3年)と2番ライト・折橋貴生選手(3年)の1、2番コンビでした。

県大会ではともに打率4割越え。

1番 近藤孝宏 .538(26打数14安打)
2番 折橋貴生 .440(25打数11安打)

4番・本間 和治

川越商はエースの岡崎投手が2年生、そして4番の本間和治選手も2年生でした。
投打の軸がともに2年生でした。

県大会.435(23打数10安打)、ポジションは一塁手です。

試合が始まったわ!

この日は朝から曇り空、試合途中には激しい雨になりました。
15時45分に試合が始まりました。

初回に川越商が先制

川越商は初回、先頭打者の近藤選手がヒット→盗塁でいきなりチャンスを迎えると、県大会では不調だった5番の稲垣選手がレフト線にタイムリー二塁打
幸先よく1点を先制します。

八幡商の先発・堀口投手はこの日立ち上がりから制球が乱れ、川越商は毎回のようにチャンスを迎えますが、序盤に挙げたのはこの1点のみ。

これがのちに大きく明暗を分けます。

八幡商5回に逆転!

川越商岡崎投手は序盤から前評判通りの投球をみせ、八幡商打線を抑えていきますが5回表に大きな落とし穴がありました。

八幡商は一死2塁から、センバツでもホームランを放っている1番の西田選手が逆転のツーランホームランをライトへ!

その後、田中選手の二塁打、ワイルドピッチ、太田選手のレフト前タイムリーなどで一挙4点を挙げて大逆転に成功します。

流れを引き寄せられない川越商

その後試合は4-2八幡商リードで6回を迎えます。
この6回が大きなポイントになりました。

6回表、追加点がほしい八幡商は二死2塁から3番・田中選手がセンター前ヒット。
2塁ランナー・西田選手がホームへ還ってきましたが、なんと3塁ベースを踏み忘れ、アピールプレイでアウト。
無得点に終わってしまいます。

これで試合の流れは川越商に大きく傾くと思われました。

しかし川越商は6回裏、一死2塁から同じく3番・田中伸明選手がセンター前ヒット。

外野は浅めのシフトで2塁ランナーは3塁でストップかと思われましたが、3塁コーチャーがホーム突入を指示。

余裕でホームタッチアウト。

ここでストップして1、3塁にしておけば、次は4番だったので1点差、あるいは同点に追い付けた可能性もあっただけに川越商にとっては痛い判断ミスでした。

持ち直したエース・堀口

4回までに8四球と大荒れだった八幡商堀口投手は試合後半から持ち直し、そのまま完投。

一方の川越商岡崎投手は1イニング4失点も、1試合6失点もこの夏初経験ということで、ほろ苦い甲子園デビュー。

試合は6-2八幡商が2年連続で初戦突破を果たしました。

ちなみに完全試合男の川越商岡崎投手は3年生になった翌年夏も県大会初戦で完全試合を達成して話題になりましたが、甲子園出場は果たせませんでした…。

3回戦 八幡商ー上宮

初戦突破した八幡商は大会10日目(8月18日)第2試合に登場。

相手は大阪代表・上宮(うえのみや)高校でした。

スター軍団・元木大介と上宮

この年の上宮春のセンバツ準優勝
春優勝した東邦(愛知)が夏に初戦敗退を喫してしまったので、上宮がこの時点で優勝候補の最右翼と目されていました。

上宮は1980年代に台頭し春のセンバツに8回、夏は意外にもこの年が初出場でした。
この年以降も夏の出場はありません。
1993(平成5)年の春に初の全国制覇を成し遂げることになります。

タレント揃いの上宮は大会きっての超人気チームであり、上宮が登場する時は決まってスタンドが超満員になりました。

しかも当時は立ち見のお客さんも多数おられました。
現在では全席指定になっているので今後こういった光景は見られないでしょうね…。

上宮・山上烈監督

上宮山上烈(やまがみ いさお)監督は同校OBで日体大に進学。
その後は体育教師として母校の上宮高校に赴任。
1971(昭和46)年、に同校野球部監督に就任すると、その10年後に春のセンバツに初出場。
春に強い傾向があり、前年春(1988年)はベスト8、この年春に準優勝。
夏に悲願の全国制覇をもくろんでいました。

とても厳しい監督さんとして有名で、その後1999(平成11)年に同じ大阪府の上宮太子(うえのみやたいし)高校の野球部監督に就任。
2000年の春と2001年の夏に同校を甲子園に導いています。

主将で4番ショート・元木大介(3年)

ここまで甲子園通算6本のホームランを記録している、正真正銘の甲子園アイドル。
その後は1年間のハワイ留学を経て、希望していた読売ジャイアンツにドラフト1位指名を受け入団。
プロ入り後はホームラン打者のイメージを一新し、『くせ者』として活躍。
引退後は明るいキャラクターを生かしタレントへ。
現在は読売ジャイアンツのコーチを務める。

1番サード・種田仁(3年)

上宮のトップバッター、種田仁(たねだ ひとし)選手はこの年のドラフト6位で中日ドラゴンズに入団。
2年目には早くもレギュラーに定着し大活躍も次第に出番が少なくなる。

その後、元木選手同様にイメチェンに成功し『ガニ股打法の種田』として復活する。
2001(平成13)年に横浜ベイスターズに移籍すると、ここでも存在感を示した。

2008(平成20)年に西武ライオンズに移籍して現役を退いた。

3番センター・小野寺在二郎(3年)

小野寺在二郎(おのでら ざいじろう)選手は強打・上宮の3番打者。
小柄だがパンチ力があり、夏の府大会決勝では試合を決定づけるホームランも打っています。
この年の秋にドラフト外でロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団するも、1軍ではわずか3試合の出場でした。

5番レフト・岡田浩一(3年)

4番元木選手の後を打つ、5番の岡田選手です。
これまで元木敬遠→岡田勝負のケースが多かったのですが、その度に相手を粉砕してきた勝負強い選手でした。

当時の筆者も一番警戒していた選手で、2回戦では貴重なタイムリーヒットを放っています。(1-0東亜学園)

6番ファースト・鈴木英晃(3年)

この大会、チームで一番当たっていたバッターです。
1回戦で4安打3打点(10-2丸子実)、この試合も4安打3打点でホームランも打ってます。

7番ピッチャー・宮田正直(2年)

上宮のエースは2年生の宮田正直(みやた まさなお)投手です。
春のセンバツでは2完封、この夏の2回戦でも東亜学園を6安打完封シャットアウトしていました。
翌年もエースとして連続出場を狙うも、府大会決勝で中村紀洋選手擁する渋谷(しぶたに)高校に敗れてしまいました。

その後はドラフト外で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)に入団するも、一軍出場はありませんでした。

9番ライト・中村豊(1年)

1年生から出場していました。
その後プロ入り、日本ハムー阪神で活躍されました。
特に阪神在籍時の2005(平成17)年9月7日の中日との首位攻防戦で延長で決勝ホームランを放ち、2年ぶりの阪神の優勝に大きく貢献しましたね。

試合が始まったわ!

この超強力チームを相手に、八幡商林監督はどのような策で挑むのか??

『ボール球を打たして、何とか抑えろ…。』

これが八幡商の作戦でした。

しかし上宮打線はボール球だろうがストライク球だろうがお構いなしにどんどん打ってくるではないかっ!!

2回に8点

上宮は2回表に押し出し四球で先制すると9番・中村選手がタイムリー、さらに強打の2番・内藤秀之選手もセンターに弾き返して3-0。
その後、2者連続のスリーベースが飛び出すなど盛りだくさんの内容で一挙8点

これで試合の行方は大方決まりました。

八幡商1-15上宮

八幡商はその裏に9番・小西選手の1塁ゴロの間に1点を返すのがやっとでした。

八幡商の先発・堀口投手は2回でノックアウト、その後出てくる投手にホームランを浴びせ15ー1上宮八幡商を圧倒しました。

上宮、山上監督激おこ事件

この試合で話題になったのが7回表の上宮の攻撃時のプレーでした。

元木選手ピッチャーフライ

この回先頭の上宮元木選手のピッチャーフライを八幡商の三番手投手・七里(しちり)投手が落球…。
本来なら相手のエラーにより元木選手が出塁するケースでしたが、元木選手が1塁へ走っておらず、ボールは1塁に送られてアウトになる珍しいプレーが飛び出しました。(記録は一ゴロ)

監督、激おこ

この元木選手の気の抜けたプレーに上宮山上監督が激怒。
「対戦相手に失礼だ!」とばかりに激怒します。

その様子が全国ネットで放送され、話題になりましたね。

八幡商・七里投手

ちなみにこの時マウンドに上がっていた七里(しちり)投手は2年生。
エースの堀口投手が復活するまでは主力投手陣の一角を形成していました。

翌年の夏、県大会でエースナンバーを背負っていましたが、甲子園大会直前でそのエースナンバーを下級生の藤原投手に譲ることになります…。

目立たなかったけれども、八幡商が苦しい試合の時はいつもこの七里投手がマウンドに立っていたのを思い出します。

まとめ 1989(平成元)年 八幡商

1989(平成元)年、当時滋賀県内で無双して甲子園に乗り込んだ八幡商をお伝えしました。

この頃が一番強かったと記憶しています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ではまた。

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