まもなく高校野球の季節ですね~。
現在、滋賀県内の高校野球界は何と言っても春のセンバツ大会で準優勝した近江高校が中心になってます。

滋賀県内は基本、常連校の壁があつくて、なかなか新鋭校が甲子園出場するのが難しいといわれています。
しかし、かつてダークホースがあれよあれよと勝ち進み、甲子園出場を勝ち取りました。
今から約30年前の近江兄弟社高校です。
今回は1993年(平成5年)、まさかの甲子園初出場を果たした近江兄弟社高校の軌跡をふり返ります。
(参考文献・ホームラン、報知高校野球・週刊ベースボールなど)
平成5年・近江兄弟社、甲子園初出場


近江兄弟社高校は近江八幡市にあります。
近江八幡市にゆかりのあるメレル・ヴォーリズ氏が設立しました。
幼稚園から小・中・高校まであります。



この記事は当時の若かりし頃の筆者の心境などが含まれます(笑)。
当時、尽力された選手・関係者の方々に大変失礼な表現になるかもしれません。
もし、不快に感じられた場合はページを閉じて下さい。
でも、若気の至りのいうことで笑って許していただけると幸いです。
平成5年はこんな年だった!
では近江兄弟社が夏の甲子園出場を果たした1993年(平成5年)とはいったいどんな年だったのか?
とてもカオスな年だったと記憶してます。少し振り返ってみましょう!
細川内閣の連立政権発足
8月9日に自民党の宮澤喜一内閣に替わって日本新党の細川護熙(ほそかわ もりひろ)が第79代内閣総理大臣に。
非自民による連立政権樹立(社会党・新生党・日本新党・民社党・社民連・公明党・新党さきがけ・民改連)。
これで1955年以来維持してきた自民党の55年体制に終止符が打たれた。
サッカーブームとドーハの悲劇
この年の5月にサッカーのJリーグが開幕。
日本列島が空前のサッカーブームに沸きました。
翌年のワールドカップアメリカ大会1994への出場をかけて臨んだアジア最終予選、日本代表は最終戦のロスタイムに失点を喫し、ワールドカップ初出場を逃してしまいました。(ドーハの悲劇)
記録的冷夏と平成の米騒動
この年の夏、ついに梅雨明けの発表がなされないまま8月を迎えます。
8月になっても梅雨前線が列島に停滞し、日照不足で米がとれずに緊急にタイからお米を200トンほど輸入する事態に見舞われました。
平成5年当時の滋賀県の勢力図
この年の滋賀県の高校野球の勢力図は、その年の春の選抜大会に出場してベスト8、春季大会でも優勝した八幡商が中心でした。
そこに前年の夏の覇者・近江、好投手・横井投手の安曇川、二年生エースのいる長浜、そして栗東、甲西などが有力でした。
今回の記事の主役・近江兄弟社は前年夏の県予選でも初戦敗退。
この年は下馬評にも挙がっていませんでした…。



滋賀大会が始まったわ!
こうして1993年(平成5年)、第75回全国高等学校野球選手権・滋賀大会が始まりました。
近江が負けたわ!
まず前年の夏の覇者・近江が初戦で負けてしまいます。(近江2-8大津商)
八幡商も負けたわ!
続いて春の選抜大会ベスト8の八商(はっしょう)こと八幡商も初戦でサヨナラ負けを喫してしまいます。(八幡商2-3近江兄弟社)
…そうなんです!今回の記事の主役・近江兄弟社が初戦(二回戦)で優勝候補筆頭の八幡商をサヨナラゲームで下すんです!
ちなみに近江兄弟社高校と八幡商は同じ近江八幡市にあり、しかも完全に徒歩圏内です。
ご近所対決を制した近江兄弟社は完全に勢いに乗りました。


初戦から優勝候補がバタバタ倒れていき、この年の世相と同じく滋賀大会もカオスになっていきます。
近江兄弟社が優勝したわ!
そんなこんなで近江兄弟社は勝ち進み、創部16年目にして初の甲子園出場を果たすのです。
2、3回戦をサヨナラ勝ちで連勝すると、準々決勝の長浜、準決勝の守山北には完封勝ち。
決勝戦の大津商戦は三点差のビハインドをひっくり返して、見事に頂点に立ちます。
2回戦〇3-2八幡商
3回戦〇2-1堅田
準々決勝〇4-0長浜
準決勝〇5-0守山北
決勝戦〇6-4大津商
背番号11の二年生・井上智之投手
近江兄弟社躍進の立役者は二年生の井上投手でした。
サイドハンドからコーナーを丹念につく投球が持ち味です。
スピードはさほど無いのですが、手元で微妙にナチュラルシュートしていました。
みんな打てそうで打てなくて、いつの間にか試合が終わっていた感じだったのではなかったでしょうか?
伊藤之久監督
当時の近江兄弟社の監督は伊藤之久監督。
犠打でコツコツ野球がモットーです。
その後は近江兄弟社の部長を務め、現在は退任されています。
負傷の山梶亮選手
県大会初戦の八幡商戦で外野手の山梶(やまかじ)亮選手が他の選手と交錯!
負傷してしまい、そのまま入院。
キャプテン・増本高也選手
初戦の八幡商戦、三回戦の堅田戦でサヨナラヒット。
そしてセンターの守備では再三好守を連発!
信頼感抜群の5番打者でした。
バレー部の友情応援
近江兄弟社の野球部はバレーボール部と仲が良く、お互いの大会に応援しに行くという間柄でした。
野球部の甲子園出場は嬉しかったことでしょう!
筆者もビックリ!近江兄弟社が優勝!?
当時の筆者も近江兄弟社の甲子園出場には大変驚きました。
お…おーみきょーだいしゃー…って感じでした(ホント、失礼っすね!ごめんなさい)。
当時の筆者ときたら、近江兄弟社といえばメンタームのイメージしかなくて、卒業したら全員近江兄弟社に入社するんじゃないかと思っていて(ホンマ、失礼)、…いや、そもそも近江兄弟社高校って言われても、会社なのか高校なのか分かったモンじゃない。


当時はメレル・ヴォーリズ氏の偉大さも、近江兄弟社の偉大さも知らない無知な若者だったのです…。すみません…。
校歌が英語
これは知っていました。
校歌の歌詞が英語ってのは聞いた事があったので、てっきりポップ調の校歌だと思っていたら、意外と重厚感あったのね…。
第75回全国高等学校野球選手権大会


そんな感じで梅雨も明けぬまま1993年(平成5年)の夏の甲子園大会が始まりました。
対戦相手が決まったわ!
甲子園初見参の近江兄弟社の相手は大会6日目第3試合、埼玉県の春日部共栄(かすかべきょうえい)高校でした。
春日部共栄は当時、まだ甲子園出場は2回目でしたが着実に強豪校に成長しつつある埼玉県の新鋭校でした。
当時の筆者はゾッとしたのを覚えています。
春日部共栄


春日部共栄のユニフォームは白にエンジ色の配色、そして埼玉県春日部市と言えばアニメ・クレヨンしんちゃんで有名です。
そしてこのクレヨンしんちゃんの主題歌「オラは人気者」のCDがリリースされたのがこの平成5年の7月。しかも大ヒット!!
アカン!時代の風は完全に春日部に吹いとる!!
試合が始まったわ!


春日部共栄の先発ピッチャーは二年生の土肥義弘(どい よしひろ)投手です。
近江兄弟社の先発も同じ二年生の井上投手でした。
井上投手は元々内野手でしたが、投手に転向しています。
しかし立ち上がりからエラーとデッドボールでピンチを広げいきなり先制を許してしまいます。
土肥義弘(どい よしひろ)


春日部共栄高校からプリンスホテルを経て1997年(平成9年)ドラフト4位で西武ライオンズに入団した左投手。
横浜ベイスターズに移籍して2年目の2005年(平成17年)には先発投手として活躍し初の二桁勝利をマークしている。
試合が終わったわ!


試合が終わりました。
結果的には大敗だったけど、終盤には県予選で負傷入院した山梶選手が代打で登場!
温かい雰囲気に包まれました。
ちなみに近江兄弟社に勝った春日部共栄はその後勝ち進み、この大会で準優勝に輝きます。
相手が強かったんですね~。
優勝したのは兵庫代表の育英高校でした。
まとめ
近江兄弟社高校が甲子園初出場を果たした平成5年を振り返ってみました。
あれ以来、近江兄弟社の甲子園出場はないけれども、時おり県大会で大物食いを果たして上位に進出する場面も見られます。
最近では2013年・夏に決勝進出しています。
久しぶりの甲子園かと期待しましたが、彦根東高校に敗れてしまいました。
また登場してほしいですね~。その時はめっちゃ応援すると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ではまた。